高齢ニートの介護日記

〜デイリー・ジャポン〜

引っ越し難民どうし、引っ越しの手伝いをしてみては?

 何はともあれ「引っ越し難民」問題ですね。 

 

 賃貸物件検索サイトのCMは流れても、引っ越し業者が人手不足なら仕方ないです。 

 

 ならば。 

 

 引っ越し難民どうし、お互いの引っ越しを手伝うというのはいかがでしょうか? 

 

 レンタカーを使って、北から南まで、行ける人は行って手伝う。 

 

 春は出会いの季節とも言いますし、そこで老若男女関係なく新しい出会いが生まれるかもしれません。 

 

 「ポルカ」あたりで資金を募ってレンタカー代にするのもいいかもしれませんね。 

 

 お困りの方、ぜひご一考を。 

 

「久米宏です。ニュースステーションはザ・ベストテンだった」を読んで・・・第四章編のつづき

 「ニュースステーション」は開始にあたり3つの業界タブーを侵すことになります。その3つとは・・・ 

 

 1.テレビ局の報道の分野に、外部の制作会社が入ること

 2.プライムタイムに、視聴率の見込めない大型のニュース番組をつくること

 3.キャスターに、報道現場を全く知らない他局出身のタレントを起用すること

 

 現在のニュース番組を見れば、上記の3つは当たり前のこととなっています。しかし当時は大冒険だったことと推察されます。

 

 「現場にいかへんやつを、キャスターって呼ぶなや」 
 
 土曜の大阪制作の番組の生番組の司会を務めていらした板東英二さんはよくこうおっしゃっていましたが、これは久米さんのことだったのでしょう。当時中学生だった私には知る由もありませんでしたが。 

 

 「ニュースステーション」開始にあたり、久米さんは「おしゃれ」以外の番組をすべて降板します。「ベストテン」のスタッフと黒柳徹子さんとはかなりもめたそうです。しかし「自分が芸能人扱いされることに違和感を覚えていた」(本文より)久米さんの意思は強かったのです。しかし義理は欠けず、「ニュースステーション」開始の年の4月まで「ベストテン」の降板は延長されました。 

 
 この後久米さんは倉本聡さんが主宰する「富良野塾」へ行きます。倉本さんに、キャスティングの相談に行くためでした。 
 
 しかし、倉本さんは一癖も二癖もある方です。久米さん(と、他の塾生)に、丸太小屋建設のための穴掘りや土運びをさせたそうです。疲労のため夜に行われる倉本さんの講義はほとんど覚えていなかったそうですが、一つだけ覚えていることがあるそうです。 
 
 「人間には陰と陽の人がいて、ドラマの出演者を決める場合、主役級は半分以上が陽でなくてはならない」 
 
 これはその後番組のキャスティングに大いに役に立ったと、久米さんは書きます。 
 
 こうして1985年10月、「ニュースステーション」がスタートします。 
 
 しかし視聴率は2ケタに届きません。そんな日々が続きます。 
 
 久米さんはお祓いをすすめられて、受けたりもしました。私自身、お祓いみたいなのを信じるのは保守派の人たちだけだと思っていましたが、久米さんがそれをやっていたとは・・・。それくらいせっぱ詰まっていたのでしょう。 
 
 お祓いが効いたのかどうかはわかりませんが、徐々にその効果が現れます。そのきっかけとなったのが、1986年1月に起こったスペースシャトル「チャレンジャー1号」の爆発事故と、1986年2月に起こった「フィリピン2月革命」だったそうです。 
 

「チャレンジャー」はCNNの映像が手に入ったこと。「フィリピン革命」はレポーターだった安藤優子さんがNBCに入ってくる情報に耳を傾け、それを国際電話で伝えるという行動に出たこと。これらが番組に躍動感を与えたそうです。「フィリピン革命」のときの視聴率は19.3%(!)。 
 
 この後「ニュースステーション」は若林正人さんの「夜桜中継」、栃木なまりの立松和平さんの「こころと感動の旅」など、ヒット企画を連発します。 
 
 久米さんが座右の銘にしている言葉があるそうで、 
 
 「風俗を語るときは政治的に語れ。政治を語るときは風俗を語るように語れ」 
 
 ジャーナリスト・大宅壮一さんの言葉です。 

 
  (この項、つづく)

 

 

「久米宏です。ニュースステーションはザ・ベストテンだった」を読んで・・・第三章、第四章編

 「アナウンサーという仕事は基本的に個人プレーだと僕は思っている。チームワークが利くような仕事ではない」

 
 久米さんはこう書きます。落合博満・前中日ドラゴンズゼネラルマネジャーが、現役時代「野球は個人プレー。自分の持ち場を守っていればいい」と言っていたのと似ています。 
 
 「視聴率100%男」は萩本欽一さんのことですが、それよりも前に久米さんは「視聴率100%アナ」と呼ばれていたそうです。そんな超多忙な中で「フリーになる」という気持ちが、頭をもたげてきました。 
 
 そんな中、久米さんは現在も籍を置く制作会社「オフィス・トゥー・ワン」の社長と出会います。その社長に「自分の言葉で語る番組を作ってみませんか」と説得されます。 
 
 自分の言葉で語る。 

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「久米宏です。ニュースステーションはザ・ベストテンだった」を読んで・・・第一章、第二章編

 久米さんはスロースターター。TBSに採用されて間もなく結核にかかったそうです。そこで2年半、電話番をするのですが、その間にテレビやラジオで他のアナウンサーや俳優さんの話し方を見聴きし、「生活感のないアナウンサーになろう」と決意したそうです。たとえばそれまでのアナウンサーに多いのは「秋風の吹く季節になりました」というところを、気圧配置の話をする、というように。 
 
 遠回りはするものです。ゲッターズ飯田さんの月めくりカレンダーにこんな言葉があります。 

 
 「迷ったり遠回りしたぶん、他の人が見ない何かを見ています。それがその人の財産です」

 
 久米さんは見事に病気のブランクを財産にしました。それがまだ41才だったにもかかわらず、あの革命的ニュース番組「ニュースステーション」のメインキャスターになれたのでしょう。 
 
 またこの二章には久米さんの方向を決定づけるキーパーソンがたくさん出てきます。永六輔萩本欽一黒柳徹子西川きよし。 

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「久米宏です。ニュースステーションはザ・ベストテンだった」が届いた!・・・私が大学時代「ニュースステーション」のスタジオに潜入した話

 かつて「ザ・ベストテン」(TBSテレビ系)や「ニュースステーション」(テレビ朝日系)で歯切れの良い司会で人気を博した久米宏さんの自伝的著書「久米宏です。ニュースステーションザ・ベストテンだった」(世界文化社)が発売されました。 
 
 今日、アマゾンから私の手元に届きましたが、目次を読むだけで、わくわくさせます。 
 
 かなりボリュームのある内容なので、何回かに分けて記事を書きたいと思います。 
 
 が、その前に、私があの「ニュースステーション」の本番直前のスタジオに潜入した話を書かせていただきます。 
 
 「ニュースステーション」は私が中学生の頃から大好きな番組でした。高校の受験勉強そっちのけで見ていたものですから、親によく怒られたものでした。 
 
 そんな私も大学へ進み、大好きなテレビの世界を味わいたくて、公開収録に参加したり、社外モニターに応募したりしていました。 
 
 まだフジテレビが新宿区河田町にあった頃も、社外モニターに応募し、「とんねるずのみなさんのおかげです」の収録現場で、木梨憲武さんと久本雅美さんのコントを見学させてもらったこともありました。 
 
 そんな私がある番組を見ていたところ、テロップで「テレビ朝日・ヤングモニター募集」の文字が。早速応募。ただ、テレビ朝日でも他局でもいいので、何か1つの番組を見ての感想を書いてくださいという”試験”みたいなものがありました。 
 
 無事合格し、毎週指定された番組のレポートを送り、週1回男女が別々に集められ、会議が開かれ、詳しい感想を3〜4人の社員から聞かれます。 
 
 3ヶ月の期限が終わろうとしていた頃、社員のリーダーだった方から「最終日に局内を見学します。『ニュースステーション』のスタジオも特別に見学します」との言葉。 
 
 黙って聞いていましたが心の中では、テンションが上がりまくり。それから毎日そわそわしていました。 
 
 そして当日。 

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田村淳さんが来春、青学大を受験!!・・・芸能人と大学

 ロンドンブーツ1号2号の田村淳さんが来春、青山学院大学を受験することを「AbemaTV」で発表しました。 
 
 「田村淳の緊急重大発表」と銘打たれた割には、ちょっと肩透かしを食らったようなレベルの「重大さ」でした。 
 
 が、「自分にとっては重大」とおっしゃっているので、田村さんにはぜひ頑張って、来春、青山学院大学の門をくぐってほしいです。 
 
 こんなことがあったので、「芸能人と大学」について考えてみたいと思います。 
 
 昔の芸能界は「大学を出て芸能界に入る」ということは、珍しかったそうです。「せっかく大学を出たのに」というような言い方をされていたようです。芸能人は昔は差別されていた人が入る世界でしたし、ヤクザが仕切っていた時代もあったので、そう言われるのも仕方がなかったのかもしれません。 
 
 今は亡き落語家の桂枝雀さんは、神戸大学を出て故・桂米朝師匠の元へ入門しました。 
 
 「大学、しかも国立大学を出て噺家になった奴がいるらしい」 
 
 そんな噂が広がり、楽屋には先輩芸人がわざわざ、枝雀さんを見に来たり、会いに来たりしたそうです。 
 
 それぐらい「芸能人」と「大学」は、かけ離れたものだったのです。 
 
 しかし時は過ぎ、大学へ行く人が増えると、芸能界にもおのずから大学出身者もそれに合わせるように増えていきました。 
 
 そしてあのビートたけしさんは、かつての人気テレビ番組「天才! たけしの元気が出るテレビ」の中の「お笑い芸人予備校」という、芸人をたけしさんが養成するという企画で、生徒たちに、真剣に、こんなことを語っていました。 

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「生きるのが不器用な人へ」的な本について・・・要領下手は悪い?

 先日ある雑誌を読んでいたら、「生きるのが不器用な人に、ぜひ読んでもらいたい本」と見出しのついた、ある書籍が紹介されていました。 
 
 私もどちらかといえば、というより、完全に不器用な人間です。 
 
 が、この手の本がどうも苦手なのです。ずっとその苦手な理由が自分でも説明できなかったのですが、比較的「これに近いかな〜」というエッセイを昔読んだことがあります。 
 
 岸田秀という心理学者、精神分析学者がいます。長きにわたり和光大学で教鞭を執り、「ものぐさ精神分析」というベストセラーがあり、2004年に定年退職されている方です。  
 
 その「ものぐさ精神分析」か「保育器の中の大人」か、どちらかに掲載されていたエッセイで「生きるのが下手な人へ」という本について、痛烈に批判した文章があります。 
 
 この文章を乱暴に要約すると、「『生きるのが下手な人へ』のような本を読みたがる

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